急ブレーキを踏んだ瞬間、車はなぜきちんと止まれるのでしょうか。
その答えの一端は、直径わずか数ミリの精密金属部品にあります。セイコーインスツルは、腕時計製造で培った精密加工技術を礎に、世界の自動車ブレーキシステムを陰で支えています。「表には見えないけれど、人の命を守っている」という責任感を胸に、今日も高品質な自動車部品を世界へ届け続けています。
今回は、精密デバイス事業部のお二人に話を聞きました。
車が安全に走るための三大要素として「走る・曲がる・止まる」が挙げられます。なかでも「止まる」は、搭乗者の生命を左右する機能です。
急ブレーキをかけると、タイヤがロックして滑ってしまうことがあります。一度スリップが始まると、制動距離が伸びるだけでなく、ハンドル操作も効かなくなります。パニック状態のドライバーが冷静に対応するのは至難の業です。この問題を解決するために生まれたのが、ABS(アンチロックブレーキシステム)です。
図:ABSにおける油圧ユニットの概念イメージ図
ABSはブレーキオイルの油圧を高速で制御し、タイヤのロックを防ぐシステムです。システムの心臓部にはバルブ(電磁バルブ / ソレノイドバルブとも呼ばれる)が複数組み込まれており、油圧ユニット内の各バルブが油圧を精密に制御することで、4輪それぞれのブレーキ力を最適化します。さらに現代の車には、急ブレーキだけでなく、コーナリング中の横滑りや車体の不安定な挙動を補正するESC(横滑り防止装置)も搭載されています。ESCはABSをさらに進化させたシステムであり、ヨーレートセンサー(車体の横滑りを検知するジャイロセンサー)など多数のセンサーで車体の挙動をリアルタイムに監視しながら、より緻密な油圧制御を行います。
近年は自動運転技術の開発も世界中で加速しており、日本国内でも2025年以降、自動運転レベル4の実証実験や営業運転が開始されています。自動運転車両では直進時でも速度を細かく調整するため、ブレーキの動作頻度が従来よりも大幅に増加します。それに伴い、部品にはさらなる耐久性が求められています。
これらのシステムの中核で、油圧の「開閉スイッチ」として機能しているバルブが、セイコーインスツルが製造する精密金属部品です。
「シール」と聞くとゴム製のOリングやパッキン、「シーリング」と聞くとコーキング用のペースト剤を思い浮かべる方が多いかもしれません。しかしABSのバルブに使われているのは、金属部品同士を直接接触させて液体の流れを制御する「メタルシーリング」技術です。バルブは4輪それぞれに対してブレーキ圧を独立して制御する役割を担っています。
具体的な仕組みはシンプルかつ合理的です。球面を持つ部品(直径約1.6mm、全長約23mm)と、受け皿状のサラ面形状を持つ部品(直径約3.7mm、全長約7mm)を組み合わせ、その接触部分でブレーキオイルの流れを制御します。球とサラ面の接触は「線接触」となるため、面同士を合わせるよりも高精度な密閉が実現しやすくなります。面同士の接触では微細な角度のずれが即座に密閉性の喪失につながりますが、球面とサラ面の組み合わせであればその影響を受けにくいのが特長です。
また、バルブが密閉状態で固着してしまうと開閉ができなくなります。線接触であれば短時間での精密な開閉制御が可能であり、これがABSの高速応答性を支えています。この球面とサラ面の組み合わせは世界標準となっており、世界各社のABSユニットで広く採用されています。
ゴムシールとの最大の違いは、「変形」を前提としないことです。ABSやESCではバルブが頻繁に開閉を繰り返すため、ゴムなどの樹脂素材では摩耗してしまい、車の寿命に対応できません。そのため金属で密閉を確保する必要があるのですが、金属はほとんど変形しません。つまり、部品そのものの精度と表面の滑らかさがそのまま密閉性能に直結します。精度はミクロン(1,000分の1ミリ)からサブミクロン(それ以下)の世界。表面にわずかな凹凸があれば、そこからオイルが漏れてしまいます。こうした精密部品の用途はABSに限りません。エンジンへの燃料供給装置「インジェクター」にも同様のメタルシーリング技術が使われており、精度が不十分な場合は燃料漏れから火災が発生するリスクもあります。ブレーキとエンジン、いずれも誤作動が許されない「重要保安部品」です。
構造こそシンプルなメタルシーリングですが、それを確実に機能させるためには、複数の要件を同時に満たす高い加工精度が求められます。
まず、密閉力と開閉性のバランスです。密閉が強すぎると、バルブを開く際に大きな力が必要になり、ABSに求められる高速かつ緻密なブレーキ制御ができなくなります。「必要最小限の圧力で確実に密閉しつつ、瞬時に開けられる」という相反する要件を同時に満たさなければなりません。
次に、仕上げ精度です。金属面に微細な凹凸があればそこがオイル漏れの経路となるため、研削やバレル処理といった仕上げ工程で鏡面に近い状態まで磨き上げる必要があります。
そしてこれらの精度を担保するためには、サブミクロン単位の計測が可能な高精度測定機器と、計測値の異常を見抜ける検査員の経験・技能が不可欠です。高い精度を安定して「作れる」だけでなく、「正しく測れる」ことが品質保証の前提となっています。
「完璧な部品を1個作ることは、比較的容易です。難しいのは、それを年間何千万個、何億個と、全く同じ品質や同じ公差の中で作り続けることです」とPMD営業課の関口氏は語ります。
1台の自動車にはABSバルブが8〜12本使用されます。世界で年間数百万台の車に搭載されているので、単純計算で同一部品が年間数千万個単位で必要となります。しかも各部品はばらつきなく同一の性能を発揮しなければなりません。
セイコーインスツルの強みは、切削・洗浄・熱処理・バレル加工・研削・メッキ・自動検査まで自社で一貫生産できることです。これは業界としても希少な体制であり、万が一問題が発生しても迅速に原因を究明して対応できます。また、コストとリードタイムの面でも大きなアドバンテージとなっています。
量産における最大の難関の一つが、熱処理工程です。金属部品は切削加工後に熱処理を施すことで硬度を高めますが、この際に金属組織が変化し、わずかな寸法変化や歪みが生じます。ABSバルブのような複雑な形状の場合、この変形が密閉性能に直接影響します。
対策は多面的です。まず前工程での精度設定を最終製品の要求値から逆算して決めます。次に熱処理時の変形を最小限に抑えるために部品の形状、素材に合った処理条件、設備を選定して熱処理を行います。その後に熱処理後の形状を研削加工やバレル処理(研磨剤と部品を容器に入れて回転させ、表面を磨く工程)で整えます。さらに「エアリークテスト」により、基準球を皿面部品に押し当て、空気圧をかけて漏れ量を測定する検査を全品に実施しています。
「熱処理の歪みは数値として捉えにくい部分があります。経験や勘も重要な要素で、最終的な密閉性能が担保できない場合、その原因を的確に捉えることが非常に重要です」とPMD技術2課の佐藤氏は説明します。
切削加工においても、量産特有の課題があります。切削工具(ブレード)は使い続けるにつれて少しずつ摩耗し、形状が変化していきます。わずかな形状変化でも、サブミクロン単位の精度が求められるメタルシーリング部品には影響が出ます。適切なタイミングでの工具交換と、交換前後での品質の一貫性を保つための管理体制こそが、量産品質を支える根幹です。
また、ブレーキシステムへの異物(コンタミネーション)混入も大きなリスクです。微細な埃や金属片がバルブ内に混入すると、密閉性が損なわれます。工場では異物が出にくい作業服の着用、手袋の徹底管理、専用の洗浄装置による部品の精密洗浄、そして出荷前の汚染物質検査まで、複数の対策を重ねています。
さらに特筆すべきは、顧客の図面要求を超えた「自主管理ポイント」の設定です。たとえば、顧客の指定公差を半分で管理したり、図面に記載のない表面粗さを独自基準で管理したりするケースがあります。1個の試作品であれば図面通りの管理でも通用するかもしれませんが、数千万個の量産においては、公差内でのばらつきが蓄積すれば品質に影響が出ます。品質異常の予兆を早期に掴むため、工場内では生産データをオンラインでリアルタイム監視し、異常を即座に検知できる体制も整えています。
自動運転技術の実用化が進むにつれ、ブレーキシステムへの要求も変化しつつあります。自動運転車では自動ブレーキが頻繁に作動するため、部品の耐久性向上が求められます。ダイヤモンドコーティングなど、従来とは異なる表面処理技術への対応がすでに求められ始めています。
また、電気自動車(EV)・ハイブリッド車(HV)の進展による車両重量の増加も新たな需要を生んでいます。重くなった車体を支えるサスペンションをより精密に制御する需要が高まりつつあり、油圧・空気圧式のサスペンション制御システムへのセイコーインスツルの精密部品応用が期待されています。
さらに視野は宇宙産業へも向いています。日本政府が宇宙経済の拡大を推進するなか、自動車産業の景気サイクルへの依存から脱却し、事業を多角化する戦略として、宇宙分野への進出を模索しています。医療機器、航空宇宙、ロボットなど、精密加工とメタルシーリング技術が活きる領域はまだ広大です。
セイコーの精密切削部品部門の生産拠点は、中国(大連)とタイ(バンコク近郊)に構えています。量産工程はすべて海外工場で完結しており、世界中の自動車メーカーへ直接出荷する体制を整えています。顧客はグローバルな大手自動車部品メーカーが名を連ねます。
「私たちの部品は、世界中の自動車の安全を支えています。地味に見えるかもしれませんが、品質を徹底的に追求した先に、世界中の人々が安心して暮らせる根底を支える取り組みがあると感じています」と関口氏は言葉に力を込めます。
派手さはありませんが、確かな誇りとやりがいがあります。世界の安全を陰で支える精密加工技術。その舞台は、グローバルに広がり続けています。
取材協力
左から、精密デバイス事業部 PMD営業課 関口氏、PMD 技術2課 佐藤氏