廃炉作業が続く福島第一原子力発電所では、各種試料の放射能分析・水質分析が毎日行われています。膨大な分析業務を正確かつ迅速にこなすために、「LIMS(Laboratory Information Management System)」と「スマートグラス」を組み合わせた化学分析支援システムが導入されました。
このシステムを開発したのは、セイコーインスツルのグループ会社である、セイコー・イージーアンドジー株式会社(以下、SEIKO EG&G)。東京電力ホールディングス(以下、東京電力HD)様からの依頼と協力(必要機能とアイディアの提供)を受け、化学分析業界の実務に特化したシステムを作り上げました。開発の経緯と技術の内容、そして未来に広がる可能性を紐解きます。
LIMSは実験室や分析施設における業務を統合管理するシステムです。分析依頼の受付からデータの記録・保管・報告書作成までをデジタルで一元管理し、データの信頼性確保と業務効率化を目的としています。製薬や食品、環境分析など幅広い業界で活用されています。
福島第一原子力発電所では、SEIKO EG&GがゼロからカスタマイズしたLIMSが導入されています。分析員のスマートグラスに作業手順をステップごとに表示してハンズフリーでの作業を可能にするほか、現場の分析員と管理者がリアルタイムにダブルチェックを行う仕組みも備えています。
東日本大震災以降、福島第一原子力発電所では廃炉作業において、放射性物質による環境への影響確認を目的として環境モニタリングを実施しています。分析範囲は多岐にわたり、港湾内や周辺海域の海水、敷地内の地下水や土壌、排水路などが対象です。加えて廃炉設備の維持・管理として、汚染水処理設備の性能確認やALPS処理水なども測定しています。
化学分析の項目数は、年間で約8万件にのぼり、震災前の約16倍となっています。測定は24時間体制で行われており、測定結果は全て東京電力HD様のウェブサイトにて毎日公開されています。
出典:東京電力ホールディングス
SEIKO EG&GのLIMSが導入されたことで、福島第一原子力発電所の化学分析業務は大きく変わりました。そのうちの一つが、データ入力方法の変更によるヒューマンエラーのリスク低減です。導入以前はチェックシート間の転記もしくはパソコンへの手入力のため、分析条件(採取日時、分析に用いた試料量など)や分析結果の入力、転記誤りなどのリスクがありましたが、LIMS導入により、入力データをリアルタイムにダブルチェックできる機能のほか、分析条件の一元管理による転記作業の廃止、分析結果の自動取得により手入力作業をなくすことでヒューマンエラーのリスクが低減されました。
2つ目がデータの手入力とチェック作業の削減による分析作業の効率化です。導入以前は、分析の各工程で分析条件および分析結果の入力やチェックなど、年間約150万件に及ぶ手入力作業がありましたが、LIMS導入により本作業の約8割を削減しました。これにより1日分(約80試料)の分析データ処理に要する時間は、延べ約57(人・時間)から、約19(人・時間)に短縮されました。
そして3つ目がチェックシートの廃止に伴う紙の削減です。LIMS導入以前は年間約80万枚ものチェックシートが使われており、1日あたり厚さ10cmのファイル3冊分に相当する量が発生していました。LIMS導入による分析結果帳票の自動取込とチェック作業の削減によってチェックシートが廃止となり、ペーパーレス化が実現しました。
導入前は、特定の熟練者でなければできない分析作業もありました。これまでは手順を定めて分析作業を標準化し、分析員が手順書にそって作業を進めていましたが、LIMS導入以降は、スマートグラスに分析手順が表示されるようになり、表示された手順に従えば誰でも同じ品質で分析作業ができる環境が整いました。
「分析作業の効率化により、より難易度の高い分析の技術力やスキルの習得に人員を投入できるようになりました。また、業務が人に依存しなくなったという効果も得られています」。担当者は、数字には表れない変化の大きさをこう語ります。
あわせて「力量管理」の機能も追加しました。分析員がシステムにログインすると、その人の担当可能な業務にだけアクセスできるように設定がされています。これにより分析作業を標準化しつつ、そのなかでも専門性を要する工程では、必要なスキルを持つ分析員だけが担当できるよう管理しています。
出典:東京電力ホールディングス
開発のきっかけは、東京電力HD様からの「市販のLIMSでは化学分析業界の実務に合わないから構築をしてほしい」という依頼でした。
SEIKO EG&Gは、東京電力HD様と各種放射能分析機器を通して長年にわたっての取引と信頼関係があり、福島第一原子力発電所の分析業務の実態を一定程度把握していました。そして自社(SEIKO EG&G)製のGe(ゲルマニウム)半導体検出器を納入したり、そのソフトウェアをカスタム開発してきた実績があります。ちなみにGe半導体検出器とはγ線やX線を検出するための装置です。
まずは「評価用システム」を試験導入し、現場のフィードバックをもとに改善を進めました。開発から使用開始まで3〜4年かかりましたが、SEIKO EG&Gの放射線分析業務への深い理解により分析品質を担保できるシステムを開発しました。
「分析品質を担保できるシステムを作るには、その業務や業界のことを知っている必要があります。弊社は東京電力HD様と長年にわたって取引をさせていただいていたので、知識を一から教える必要がないというところが依頼につながったのではないかと思います」と担当者は分析します。
東京電力HD様からの要望の一つがハンズフリー操作でした。分析の前処理で使用するガラス器具や試薬など、両手で繊細に扱う必要があるものが多数あります。そこで採用されたのがスマートグラスです。
しかし、当時、業務に対応した音声入力機能と操作性を持つ製品が存在しませんでした。そこでSEIKO EG&Gは市販のスマートグラスに独自の改造を加え、マイクやスピーカー、カメラ(映像送信機能)を組み合わせ、前処理情報の入力、測定分析の実施、分析結果の確認(トレンドグラフ確認)を音声入力で実施可能な専用端末として仕上げました。
また、作業中にスマートグラスが落下すると分析作業が中断してしまうため、スマートグラス本体をヘルメット型のフレームに固定できる形状にしました。作業の進捗に合わせてスマートグラス不使用時には、グラス(ディスプレイ)を跳ね上げる機構も組み込まれています。
現場の実情について、担当者はこう語ります。「福島第一原子力発電所では多重の手袋を装着した状態で化学分析作業を実施しているため、マウスやキーボードの操作に難がありました。そういうところも含めてハンズフリーで音声入力がしたいというニーズがありました」
分析員はスマートグラスを装着した状態で試料のQRコードを読み取り、その後、採取日時などの情報を音声(発話)により入力します。作業手順はスマートグラスに表示され、指示に従って作業を進めます。指示された作業が完了すると音声での確認を行い、次の分析作業に移ります。測定が終了すると、スマートグラス上には今回の測定結果に加えて、その試料の過去の分析値のトレンドグラフも表示されます。この機能も異常値の有無の判断に役立ちます。
SEIKO EG&GのLIMSが他のシステムと大きく異なるのは、「途中で間違いに気づける」仕組みです。試料の採取日時などを現場の分析員が音声入力すると同時に、事務所の管理者がカメラ映像を確認し、採取日時などをシステムに手入力した後、プログラムによって分析員が音声入力したデータと管理者が手入力したデータが一致していることを確認します。このリアルタイムにダブルチェックできる機能により、不一致が生じた場合はその場で分かります。
この設計思想について、開発責任者はこう説明します。「必ず2名の人間が入力して、チェックをプログラム的に行う。AIにしても何にしても間違うということはあると思いますので、間違うリスクをできる限り低減するように、必要なところは人のチェックを入れるという形のシステムになっています」。
SEIKO EG&GのLIMSは測定機器から分析結果を自動取得します。SEIKO EG&G製の測定機器だけでなく、他社製の測定機器からのデータも自動取得して一元的に管理することが可能です。東京電力HD様の基幹システムとも連携しており、分析指示の受信から分析結果の自動送信まで、一連のデータの流れがLIMS内で完結します。最終的に承認されたデータは東京電力HD様のウェブサイト上で公開されます。
出典:東京電力ホールディングス
SEIKO EG&Gが開発したLIMSはデータ管理の機能に加え、「業務支援」までできるのが最大の特長です。
化学分析の現場では、試料の性状や対象とする放射性物質の種類によって前処理の手順や測定条件が異なります。こうした複雑な業務手順をスマートグラスが指示してくれるため、ヒューマンエラー防止と信頼性の両立が可能です。
市販のLIMSは化学分析業界の固有の業務フローや測定機器との連携には対応していません。SEIKO EG&Gは自社の放射線測定の知識と、東京電力HD様の業務実態への理解を組み合わせることで、現場で使いやすいシステムを構築しました。また、各分析機器の校正期限もシステムで管理できます。
まず視野に入るのは、同じ化学分析業界への展開です。放射性医薬品を製造するメーカーは出荷前にGe半導体検出器で品質を確認します。SEIKO EG&Gはすでに測定装置を納入しており、そこにLIMSによるデータ管理機能を組み合わせることで、さらなる展開の可能性があります。
他の電力会社への展開については、測定業務の一部だけをシステム化するなど規模を絞った提案は検討の余地があります。LIMSはもともとお客様ごとのカスタマイズを前提としており、柔軟な対応が可能です。
福島第一原子力発電所での化学分析業務は、廃炉を進めるうえで欠かせません。放射能濃度や水質分析値を毎日確認し、そのデータを社会に公表し続けるという責務を、SEIKO EG&GのLIMSが支えています。SEIKO EG&Gは機器販売だけでなく、業務全体のソフトウェア開発とサポートを強みとしています。
東日本大震災以降、原子力発電に対して危険なイメージを持つ方もいます。しかし、廃炉という国家的プロジェクトに技術者として関わり、社会に貢献できる仕事がここにあります。福島第一原子力発電所の廃炉は、日本国内のみならず世界の原子力関係者が注目しているプロジェクトです。
取材協力
セイコー・イージーアンドジー株式会社の関係者の皆さん